いけ花の歴史

人(日本人)が、花をいけるようになったのは、一体いつ頃からなのでしょうか?

花をいける人となってから、時々わいてくる想い。。。

自分は何故花をいけるのか。。。それにはまず、歴史を学ばなくては。。。

ということで、花の歴史を調べてみました。

奈良時代~平安時代

桜や梅の花を手折って、冠にさす風習があり、花を瓶(花瓶)にさして鑑賞することも盛んであったようです。

奈良時代後期に成立した『万葉集』の中には、大伴家持が詠んだ歌の中に、

「鶯の、鳴き散らすらむ、春の花、いつしか君と、手折りかざさむ」

「あしひきの、山下ひかげ、かづらける、上にやさらに、梅をしのはむ」

など、また越中国(富山県)で酒宴を開いたとき、席上の瓶に飾られたサクラとツバキを詠んだ歌もあるようです。

こうした歌は『古今和歌集』「桜の花の瓶にさされたるを見て詠める」や『後撰和歌集』にも見られ、また『枕草子』には、

[勾欄のもとに青きかめの大いなる据ゑて、桜のいみじくもおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いとおほくさしたれば、、、」とあります。
これらはどれも、ただ単に花を挿して観賞するのであって、いけ花という形にはなっていません。

「いけ花」としては、信仰行事から成り立っていきます。

一つは、神の依り代としての花

もともと日本人は、草木や花や自然を信仰の対象として見てきました。

「はな」とは、ものの先触れとしてあらわれる「しるし」の意味で、花の咲きぐあいや散りようを見て、その年の作柄を占ったようです。

また日本人の祖先の生活信仰では、神に祈る場合、神を迎えいれる場所を定めて、そこに花や木をまっすぐ立てる風習がありました。

一年中緑が枯れることのない常緑樹は、神の「依代」として、神が天から降りてきて宿るところと考えられてきました。正月に門松を立てるのも、そのためです。

また樹齢を重ねた大木などは、そのままで神霊のよりつく、神の依代と考えられました。神社の敷地にはご神木があるところが多いです。神様を迎い入れ、その年、その土地、その家の安全と幸せを祈るのは今も変わりません。

いけ花は花よりも、まず枝を立てることの方に、基本的な骨格があるのは、古代の信仰の依代の風習に関係しているのかも知れません。

また一説によると、花を立てて依り代とするのは、動物は切られれば死んでしまいますが、植物は切られても水があれば芽を出したり、成長します。そこに古代のひとびとは神秘や生命の強さを感じたからではないかということです。

もう一つは供花としての花

こうした民俗信仰の素地の上に、中国から仏教が伝えられました。

仏教において、仏に花を献じることは供養の第一とされ、奈良時代から文献や絵画のなかに見
ることができます。

高野山の『二十五菩薩来迎図』(平安中期)や『源氏物語』にも「法華の曼茶羅を掛けて銀の花瓶に高々と花を調へる」と描かれています。

寺僧の献花ばかりでなく、供花は朝廷をはじめとして上流貴族に受け入れられ、瓶花や壺や皿に、花を挿して献ずる風習が盛んとなり、民俗信仰の花とも習合して普及していったようです。

『今昔物語』(平安末期)には、「春秋にしたがひて野にいで山に行きて時の花を折り、その香に加えて仏に供差し奉りけり」とか、「蓮花の開くる時になりぬれば、それをとりて、其郡の内、諸々の寺に持参りて仏に供養し奉りけり」とあり、貴族の造寺・造仏に対して、庶民が供花をもって功徳を積もうとしたことがうかがえます。

鎌倉時代

平安時代後期から鎌倉時代にかけて、仏教は一般庶民の間にも浸透して、仏前供花の風習が広がりました。人々は極楽浄土を願い、香を焚いて花を供えました。

こうした供花の一般化は、法然上人、親鸞上人、日蓮上人らの仏教によりさらに浸透して、仏前供養の様式も徐々に整いました。

仏にささげる花としての供花の形が確立され、いけ花発生の源となりました。

この時代には、花は「挿す」というより「立てる」と言いましたが、これは民俗信仰において花を立てたことともつながり、厳格さを保つ上からもこの形がもとめられたのでしょう。

鎌倉中期以後の仏前供花は、床の間ができる前の寝殿造や武家住宅において、部屋の壁面に三幅
一対の仏画を飾って、その前に押板をおき、その上に三つ具足(香炉・花瓶・燭台)を並べる荘厳形式でした。

その後、仏画が草花などの絵画にかわり、文学的な雰囲気のなかで供花がおこなわれています。

さらに仏前ではなく縁に押板を出し、青磁の花瓶などに花を立てて中央に据え、左右に燭台と香炉を置いた供花の形もあり、この時代になると供花は「たてはな」ともよばれ、宗教的な意図からしだいに鑑賞的な性格が加わっていきました。

室町時代

室町時代に入り、建築様式も徐々に変わり、寝殿造りに畳が敷かれるようになり、書院造りがうまれました。書院造りの床の間や違棚にいろいろな道具を飾りつける書院飾りができ、その中の1つとして、花を生ける方式が生まれました。

東山文化の担い手であった将軍足利義政は、和歌、連歌、能楽、茶の湯、庭園構築などに力を注ぎ、こうした風潮の中で、花をいけるということも室内装飾として重要な役割を果たすようになりました。

将軍の屋敷を荘厳化するためには、きちんとした座敷飾りの方式が必要になり、それを具現化するために同胞衆と言われる集団が力を発揮しました。その中から、花を立てることを専門にする名手が現れました。

しかし室町幕府が倒れそれによって同胞衆は支持基盤を失い消滅していきました。

同じ頃、京都六角堂頂法寺の池坊の僧たちの中からも花の名手がうまれ、活躍しました。
頂法寺(池坊)は花の名手が相次ぎ、参拝の人が多く、町衆たちの支えもあり、また武家社会だけでなく、貴族社会にも進出し、絶大な支持を集めました。

そうした中で、立て花(いけ花)としての形が確立されていきました。

安土桃山時代~江戸時代

この時代になると、立て花の名人と呼ばれる人々が何人もでてきて、立て花は技巧的になり複雑になりました。

それまでは主に上流階級のものであった立て花(いけ花)は、いろいろな花伝書が書かれ、一般庶民にも容易に手に入りやすくなり浸透していきました。
加えて花の栽培が盛んとなり、樹木や花も容易に手に入れることができるようになったようです。

そのような状況が整った江戸中期以降に、花をいけることを職業とする生花の師匠が登場するようになりました。